再び

 レグルがシヤをもう一度訪ねようと決意したのはあたり一帯を数日かけて散策した後だった。
 突然襲いかかってくるような敵は、やはり森にはいないようだった。
 森を出て、敷地に入らない限り。
 敷地の中に檻があり、檻の周辺にはあの女がいるが、森に出てくることはないようで出くわすことはなかった。
 あんな強烈な女がいる中、危険を押して赴く義理など自分にはないはずで、このまま立ち去ってしまおうとずいぶん悩んだ。
 悩んでいると、去り際に見たシヤの悲しげな表情が脳裏に何度も浮かんでその結果、レグルはシヤに負けたのだ。
 別れの挨拶ぐらいした方がすっきりしそうだと決意していた。
 夜には敷地は閉ざされるようで、シヤの檻に行けるのは昼間だけだった。
 目映い太陽が照らす時間にどうどうと訪ねるしかないのは、レグルにしてはなんとも心細いことな上、勢いで入り込んだ一度目とは違い、今度は明確な目的を持って行くことになる。
 シヤに会いに、あの女がいることがわかっているのに、だ。
 せめてこっそりと夜陰に紛れたいと思ったが、それも許されずレグルは溜息を吐いた。
 でも一番の溜息の理由は、シヤを気に掛けて足を向けようとしている自分、男相手に己の呆れっぷりだったが、無視できそうにもないので仕方がなかった。
 レグルが檻の前に立った時ーーー。
 クッションの山が崩れ中からシヤが顔の出したのはほぼ同時だった。
 会いに来たものの、なんて声を掛けるかまでは決めてはおらず立ち尽くしたレグルに、シヤが嬉しそうな声を掛ける。
「また来てくださった!ずっとずっと待っていました」
 のそりと這いだして、ゆっくりと立ち上がったシヤにレグルは顔を顰めていた。
「それは、どうした?」
 胴衣から伸びる腕に幾筋もの赤い線が走っていた。白い肌に痛々しいほど鮮やかな引っ掻き傷は、前回にはなかったものだ。
「あの女か?」
「え、あ・・・違います。それにこれくらい、たいしたものでもありません、平気です」
 シヤはにっこりと笑顔を浮かべて、そんなことより、とさっさと怪我の話を打ち切っていた。
「もう来てくださらないのかと心配していました。とても嬉しいです!」
 現実感の薄い容姿をしたシヤが耳を疑うような言葉を紡ぐ。
 本気か?
 レグルとしては相手の真意を疑いたくなるほどの好意を表されて、たじろがずにいられない。
 紛れもない本気だとのちに認めることになるのだが、まるで違うものには惹かれてしまうものなのかも知れないと思った。レグルだってシヤを無視できないでいたのだから。
「あの、何かわたしはご気分を損ねることを言ってしまいましたか?」
 不安そうに尋ねられるまで沈黙してしまっていた。
 特別理由があって会いにきたわけでもなく、あるとすれば、別れの挨拶だったが、シヤの笑顔の歓迎の前ですっかり言い出す気力を失っていた。
 シヤはレグルに歩み寄り、すでに最初の日の別れ際の、手を伸ばせば触れられる距離になっていた。
「・・・ぶちまけたような血の臭いが残っている。何があった?」
 きれいに片付けられて跡形もなかったが檻には強い血の臭いがあった。シヤのものではなさそうなことに安堵していたが、やはり気に掛かる。
 シヤの体には大きく目につくだけでも三カ所の傷があった。腕よりも軽いが、髪に隠れた首筋や、頬にも傷を作っていた。
 それまで快活だったがシヤが口ごもった。
「たいしたことではないのです・・・」
 一面が血に染まったのではという血臭が檻にこびり付いている。それが、たいしたことではないとはレグルには到底、思えなかった。
「言いにくいことか?」
「少し・・・」
 苦しげに小さく答えたシヤに、レグルもそれ以上立ち入ることをやめにした。
 聞いてもおそらく、レグルにはきっと何もすることはないだろうし、嫌がることいたずらに追及するべきではないはずだ。
 そのかわり、ふと思い出した。
 ここに来る途中いいものを見つけたのだ。
 腹が満ちた後にもう数個の青桃の実をもいで、荷物の中に放り込んである。
 もっといいものを与えられているだろうから、シヤが酸味の強い森の果物を欲しがるとは思わなかったが、途切れた会話を引き戻すには恰好となるはずだった。
「食べるか?ーーーそれとも、こんなもの、あんたは食べないか?」
 一つ取りだした握り拳半分ほどの実を掌に載せて聞くと、シヤは目を丸くしていた。
「食べたことありません・・・」
「酸味はわりと強いが甘みもあるんだ、が・・・別に無理して食う必要もない」
「いただきます。食べてみたいです・・・」
 前向きなことだと、レグルは青桃を掴む腕を檻の中に突きだした。指先が檻の柵を越えていることを見た。
 シヤもそっと手を伸ばすとレグルが差し出した実を受け取った。
 そのとき、ほとんど無意識にしてしまったことだった。
 レグルは青桃を両手で大切そうに包むシヤの腕を掴むとぐいと引いた。
 細い腕に軽い体はくっついて倒れてきたが、檻に当たって止まった。
 掴んだ腕はすでに放している。そのかわり、銀色の頭に抑えていた。
「傷が早く治るおまじないだ」
 レグルは顔を寄せるとぺろりのシヤの頬の端の赤い線を舐める。
 体勢を崩したシヤが慌てて、その先、悲鳴を上げる暇もない、あっという間のことだった。
 もうシヤの頭だって、解放している。
 驚いた顔でシヤはレグルを見つめた。
 レグルは苦笑を浮かべていた。
「・・・悪かった。気になってな・・・。じゃあ、もう行くとする。あの女に見つかっても厄介だから・・・」
 まだ呆然としているシヤの腕の中に残りの二つの青桃も押しつけるように渡すとレグルは背を向けた。
 無礼な振る舞いをして不興をかったかも知れないが、きっと、それはそれでいいのだと思った。この地を去るいい切っ掛けだった。
 けれど、ついと背中の一部に何かが引っかかっているのを感じた。
 振り向いたレグルは自分を引いているのが、シヤの白い腕であることを信じられない気持ちで目にした。
「・・・待ってください、まだ平気です。ザフィネと言います。あの女性は、今はここにはいません、外に連れて行かれたから・・・きっと当分は戻らないと思います・・・」
 恥ずかしそうに頬を薔薇色に染めながら言うシヤは、これまでの人生の中の一番の乙女だった。
 レグルは、まいったなと思った。
 嫋やかな乙女を前にして、その一喜一憂に惑うしかない男は乙女以上に無力だ。
 これでは、自分は立ち去ることなど出来やしないのだ。



20160118

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