闇色の夢

エリスは長い長い夢を見た。
最初は十歳の誕生日を迎えたばかりの頃のものだった。エリスは姉たちと乗馬をしていた。
過去にあった日の夢だった。
その日は、本当は屋敷にレイドリクス・ローディンがやってくるはずだった。
でも予定は中止になってエリスはとても喜んでいた。
嬉しくて、浮かれてはしゃいでいたのだと思う。
レイドリクスとは、エリスの許嫁だった。六歳年上で、当時十六歳。すらりと身長が高く、金髪を長く伸ばし、頭は小さくて、鼻が細く高くて、碧い眼をしていた。使用人の女の人たちはみな、レイドリクスが屋敷にやって来ることを楽しみにしていたから、世間的にとても美男子なのだとは感じていた。
女の人はレイドリクスに夢中になる。レイドリクスもそんな女性には貴公子然と優しく振る舞うようで、いろいろな女の人とお付き合いをしているという話は、こっそりと噂話や、両親の溜息交じりの会話に聞いていて物語の脇役の王子様のような人だと思っていた。主人公のお姫様は、口べたで少し不器用な癖っての王子様と結婚して物語は終わり、余った王子様がその後どうなったか書かれていなかったけれど、きっとその美しい王子様は誰とも結婚はしないのだろうという気がした。
それなのに、レイドリクスは自分の許嫁なのだ。
間違っていると、ずっと感じていた。
「エリス様、素敵ですわね。レイドリクス様が婚約者だなんて、物語のようですわ!」
お茶を注いでくれながら言われた言葉もずっとエリスの心に引っかかった。
その人がどんな本を読んだのかわからなかったけれど、エリスの知る物語ではたいてい結婚をしないようなタイプだ。
それだけでなく、エリスはレイドリクスが怖い。
背が高く、澄んだ碧い眼で冷たく見下ろされていると緊張して、生きた心地がしない。
女の人がみんな気に入るような人だから、婚約相手に決まった相手が、よりにもよってこんな子供だとがっかりしているのだろうと感じた。
本当は長女のアルセアか、次女のキャリーのどちらかの姉が良かったのだろうけど、もう相手は決まってしまっているので、残っているのは自分しかいないから、仕方なくーーー。
六歳上、四歳上と少々歳が離れたが姉たちはエリスにとってお手本であって、到底超すことの出来ない憧れだったから、卑屈な気持ちも味合うことになる。
自分に出来ないこと、注意されることを楽々と笑顔でこなす姉たち。
四年後だったら、エリスにだって不可能ではなかっただろうけど、今目の前にあるのが現実だった。意味がある、一番重要なことのはずだと考えるエリスは大人しく、真面目な性格だった。
だから、自分許嫁であっても、レイドリクスに会うことは楽しくなかった。
レイドリクスの前に立つと、心が沈む。身体が小さく萎むの感じる。
年を得て、エリスの身長は伸びているのだから身長は差は開いているとは思えないけど、未だに、会えば会うほど激しく見下ろされていっていると思う。
その理由が、エリスの怪我だと。
誰だって思うはず。エリスだって思う。
特別な思い入れのない相手なら、美人な方がいいはずだ。可哀想だと感じるから、顔に傷などこしらえていない相手を選ぶはず。毎日、顔を合わせる度、憂鬱な気持ちになるなんて余分なことは避けたいこと。
だけど、レイドリクスは避けられないから怒っているのだ。
怒っていても、なぜ怪我などしたんだなど、どうどうと文句を言えることでもないから、自分が悪いのだとエリスは思っている。
あの日、レイドリクスが屋敷に来ないとなって時間と心が解放されて、エリスは姉にせがんで乗馬をした。
心も軽く、二人の姉と一緒に遠掛けに出た。
「エリスは乗馬が得意ね」
「エリーは馬も怖がらない。乗馬ではエリーに勝てないよ」
今ならもう知っている。
勝てないのではなく勝たないようにしていた。
品のある年頃の貴婦人として振る舞うことを念頭にしている二人の姉たちが、まだ幼い妹をおだてて喜ばせていただけなのだと。
けれどエリスは、乗馬をしたら自分はおてんばなので一番なのだと信じていたから、風を浴びるのが大好きで、乗馬をすることも大好きだった。
大はしゃぎして失敗したのだ。
得意になって鞭を振り、馬を速く走らせた。喜びに溢れていた。
でもそのとき、草原を小さな生き物が馬の疾駆に驚いて飛び出したのだ。
馬もひどく驚いて、いななき跳ね上がって、暴走を始めたのだ。
走らせることは得意でも、気を動転させた馬を鎮めるほどの技術など無く、エリスは暴れる馬の背でしがみつくだけだった。
けれどすぐに力尽きて、しがみついてもいられなくなって、エリスは馬の背から振り落とされた。
横に飛ばされて地面に落ちた。
地面は草地が途切れ、岩交じりの土で、衝突の衝撃にエリスは肩の骨を折った。
でももっと問題だったのは、ざらつく地面で擦った肌が大きく剥けて裂けたことだった。
右の頬と額の隅と、肩から腕もーーー。
意識を朦朧とさせるエリスを抱きかかえた姉のアルセアが、今まで見たことのない勢いで馬を走らせて屋敷に運んだ。赤い光景の中に鬼気迫る顔付きになっていた姉をぼんやりと覚えている。
アルセア姉さん、乗馬、本当は上手いんだって知ったときだった。
落馬のあと、エリスは高熱を出して生死の境をさ迷った。
傷の中に菌が入り込んだのだと、ルルドゥ家のお抱え医師は首を横に振った。
最善は尽くしました、あとは神に祈るだけですーーー。
ほぼ、死を宣言されたがエリスは奇蹟的に生き残った。
熱が下がり、目を覚ましたのは落馬から十日過ぎたあとで、憔悴した家族の顔をエリスは不思議そうに見たのだ。エリスの時間は事故からすっぽり抜けおちていたから、涙を流しながら喜ぶ様子にきょとんとしていた。
馬から落ちたことをすぐに思い出していたが、顔の右半分が布に覆われていて、右目を塞がれてしまっていることは驚いた。大げさだなあと思った。
取ってしまおうと思ったけれど、身体に力が入らずベッドから起き上がれないという事態に、エリスもさすがに愕然とする。

20150814
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