ヴァルグ

「おれはヴァルファンルング、ヴァルグと呼べ。おまえは?」
「エリス」
答えたと同時に身体がぐらりと傾いてエリスは慌てて悲鳴をあげそうになっていたが、ヴァルグは平然だった。
「落っこちないよう掴まってろよ」
身を屈めたヴァルグはエリスの膝を片腕で抱いて持ち上げていた。
ヴァルグの方が少し背が高かったが、それほどの大差はない少年が、エリスを軽々と肩に担ぎあげた様子に集まった者たちが息を呑んだ。
でも本当に驚くのはこの後だった。
「めんどくさいから飛んじゃう」
「え?」
「だから、首にちゃんと腕回してしっかり掴まってろよ、返事は?」
「・・・わかった・・・」
よくわからなかったけどとりあえず答えて、そのあとに意味がわかった。
「う、わぁっ」
「掴まって、ロヨ・・・コウナッタラ、支エラレネエ、カラ、ナーーー」
ヴァルグの身体が膨れあがって形を崩していた。
言葉が途中から不明瞭になった理由だってそれだった。構造が変わって人間の声が出せなくなったから。
少年の姿が別のものへと変わってゆく。
衣類がめりめりと裂けてぼろ切れに床に落ちても止まらなかった。
エリスは言われた通りにヴァルグの首に両方の腕を回してしがみついていたが、腕の長さがどんどん足りなくなってゆき指先に力を込めなくてはならなくなっていた。
でも、一枚一枚がエリスの掌ほどある大きな鱗が重なる体表が、指に安定した場所を与えてくれるのだと感じて、ほっとした。なんとか滑り落ちずに掴まっていられたのだから。
少年だったヴァルグは、竜になっていた。
銀色の光沢のある深い色の竜。
少年の姿の時の髪色は竜の体の色に繋がっているのだとぼんやりとした頭で考えた。
屋敷の広間で、竜の背中にしがみついて、落ちないように必死になっている不思議ーーー。
いくつも悲鳴が聞こえた。
多くの者が広間の縁や入り口に集まって慌てているのを感じていたが、エリス自身は怖いとは思わなかった。
ああ、落ちたらどうしようと少し怖かった。
気付いてくれるだろうか。それとも、ちっと舌打ちをして、エリスを残して飛んで行ってしまうのだろうか。
行っちゃいそうだなと思ったから、爪先で蹴って身体を持ち上げて掴まり直していた。
でもすぐに腕は楽になっていた。
ヴァルグが身体を前屈みにしたから。
ヴァルグが前脚を床に着け、四つ足の竜姿が完成されていた。
エリスの両側で暗い幕のようなものが広がり、翼だと気付いたときには風が巻き起こっていた。ゆったりした羽ばたき一掻きで竜の飛翔が始まり、鳥とは違った力が働いて飛ぶようで、竜は広間に浮かんでいた。
エリスは空中から、父や使用人達の驚きすぎて強ばり、引き攣った顔をしばらく眺めた。
そして唐突に、これは自分が心変わりをしないかどうか確かめられているのだと気付いて、
「ヴァルグ、いいよ。大丈夫、行ってーーー」
エリスに応じるように竜が、ギャオルルンとあたりと圧倒するような大きな声で咆えた。
それを合図にしたようにエリスの頬に当たる風が激しくなり、身体がぐらぐらと揺れた。竜が上昇していることを肌と視界で感じた。
「エリスっーーー」
「いや、エリス、わたしのエリスがっ、誰か誰か、あの子を助けてっーーー」
父と母の姿を見下ろしていた。
「エリー」
「エリスっーーー」
二人の姉たちも懸命の名を呼んでくれていた。みんな自分のために、起きてきてくださったのだと思うと胸が熱くなり、目頭がじくじく痛んだ。
でも、決めたのだ。
エリスは家を出ることにした。
馬鹿だと言われるのはわかっているけど、どうしても嫌だった。
エリスにとって、譲れないことだったから。
心変わりも後悔も、しない!
だって、解決策なんて無いのだから。
『行くぞ、しっかり掴まってろ』
そんな声を聞いた気がした。
うん、とエリスは頷いて腕に力を込めた。奥歯を噛みしめていて声は出せなかったけど、竜ーーーヴァルグに通じたのだと思った。
そのあとのことはあまりよく覚えていないのだ。
風とざんばらと舞う自分の髪に目が開けていられずぎゅっと瞑った。指先が痺れたように冷たくて、痛かった。硝子が砕ける音を聞いて、身体がぞりと冷えた。身体が上に放り上げられるような孤独感、落下していまにも地面に叩きつけられるのではと言う恐怖感に襲われていた。何度も不規則に繰り返されてまともに呼吸も出来ずしがみついていると苦しくなって頭の芯がくらくらしてきた。一番怖かったのは滑って落ちそうなこと。
あらかじめ何度も、ちゃんと掴まっているように言われたのに指を滑らせてしまいそうだった。
膝にも力を入れて竜の体から剥がれないようにしていたけど、急に近くで驚いたようなけたたましい鳥の鳴き声を聞いたとき、ずるっと自分の身体が動いたことを感じた。
落ちるーーー。
言葉にも悲鳴にも出来ず、風に煽られて上体が浮かびひっくり返されて背中から落ちていく感覚。
目を開けたとき、夜空に溶け込むような竜の姿を見た。
自分の要求を聞いてくれた親切な竜のヴァルグ。
正式な名は、ヴァルファンルング。格好良い響きで一度で覚えてしまった。
竜とは肉食で、人間を襲う残虐生き物だと聞いていたけど美しいと思った。
翼も、長い尾も、牙も爪も、生きている石ではない瞳の輝きは、どんな宝石も敵わない。
思ってもいなかった出来事が起こっていた。
生きた竜に会うなんて、そして竜が家出を手助けしてくれようとするなんてありえない、幸運だった。
でも、自分は落っこちるのだ。
落ちてしまって、上手くやれない。
上手く生きられない。またーーー落ちる失敗を繰り返すのだ。
それがわたしの運命。
エリスは夜空を真っ逆さまに落下しながら、深い闇の中に落ちていった。



20150812
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