第七章

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黒竜・ガーレルのことをとやかく言える行いではなかったが、幸いにもシルドレイルは水霊と契約した蒼竜王であり、闇の竜王ではない。ガーレルほど闇に精神を乗っ取られることはなかった。
闇に呑まれてしまうことが、闇竜にとって致命的になる問題であることはわかっていたはずなのに、シルドレイルは己の不注意に歯噛みした。
ガーレルは苦戦を強いられたキリングを助けるために、アドリィから離れた。そしてその隙に、アドリィは気配を消すことのできる人間に襲われてしまったのだ。
状況を把握した蒼竜は操っていた水礫を放棄していた。
まだ動いている相手に、留めを差すために空中に集められていた水粒は、ザンと雨のように地上に一気に降った。
それまで、なるべく生かし時間を掛けてじっくり苦しめて、いたぶってやろうと考えていた人間たちへの興味は完全に失われ、シルドレイルは翼を広げた。
蒼竜は吸い込まれるように空へ舞い上がっていた。
目指すのは黒竜。
アドリィの身も心配で苦渋の決断だったが、意識のないまま運び去ろうとしているなら人間たちはすぐには殺さないことに決めたのだろう。
人間の目にもアドリィが珍しく、特別な竜であることがわかるのだ。殺されて解体されないのなら、この先、救い出す機会はあるはずだった。
ならば、早急に手を打たなくてはならないのはガーレルヴェルグの方だ。
完全に己を失う前に、引き戻さなくてはならない。
このまま人間のために、森と黒竜の両方を失うことは避けなくてはならなかった。
風を巻いて、森の上空を移動した蒼竜は森を大きく切り取ったようにぽかっと開けた空き地の上空に達していた。
地上では黒竜がのたうつように大暴れをしていた。
倒木の陰などに、潰れた人間の死骸を幾つも見た。
それが地上に降りた切っ掛けだったのだろうと思ったが、その目的はとうに達せられたのに、黒竜は止まらない。
生気を奪い取る力のある闇霊が黒竜の周りに集まり、一緒になって乱舞していた。
純粋な闇の精霊は生き物に安らぎを与えるものだ。疲れた精神を優しく抱き、癒す働きがある。
闇霊は、光霊と共に生き物の活力、気力、生死にも密接した力を持つ高位の精霊だった。
光霊、光の精霊はとても気難しく、これまで竜と契約したことは滅多になかったが、闇霊は他の四元素精霊、火、水、風、土の精霊と同じく、どの時代も竜と契約した。
竜王が死ねば、新たな王と認める竜を見つけたらそちらへと移り、竜との繋がりを密にする。闇竜王は早死にが多いから、必然的に闇の王竜は他の竜王より多く生まれる。
でも闇霊が危険な精霊というわけではないのだ。光と同様、闇なくして生き物は生きられない。あらゆるものを包み込む慈愛深い闇ーーーしかし、そこには、光の中では焼かれてしまう禍々しい邪霊や魔も寄り集まってしまうから、障気に浸り続けた闇霊が犯されてしまうのだ。
そして、契約した竜も一緒に狂った闇に浸食されて正気を失うことになる。
闇霊と契約した闇竜王のほとんどが暴走の果てに、寿命を全うできない不幸な死に方をしており、闇竜王の宿命と諦められていることであったが、決して必ずではないことにシルドレイルは望みを託している。
すべての竜王が闇に呑まれて無残な最後を迎えたわけではないのだ。
偉大な闇竜王でありながら、闇と共に長い時間を生き続け、世界を見届けた、そんな王もいた。
稀だろうが前例が確かにあるなら、当代の闇竜王が二例目になったっておかしくはないはずだ。
シルドレイルはそれを深く望んでいた。
数多くの竜たちが人間に狩られ数を減らされる日々が続いているなら、せめて、この竜王を、腐れ縁の竜を助けたかった。
助けることが、監視役を言い渡される自分の本当の役割なのだと考えるようになっていた。
シルドレイルは無闇な刺激を与えないよう空中に留まりながら地上のガーレルに語りかけた。
『目を覚ませ、ガーレルヴェルグ!聞こえるか、私の声を聞け、ガーレルヴェルグ!!』
竜の真名で繰り返し呼びかけると、森の木々を薙ぎ倒すように走り回っていた黒竜が動きを止めた。
首をもたげ、上空を仰ぐ。
その目を見た蒼竜はすぐに無理だと判断した。
直後、黒竜は攻撃に出た。
大口を開き次々と吐きだされた闇色の砲弾を蒼竜は交わして飛んだが、埒があかないと感じて羽ばたきをやめると急降下した。
体当たりする勢いで、黒竜を上から押さえ込む。
細身の蒼竜に比べて、黒竜はずんぐりとした巨体だった。大きく重い体を重さなどない様に支える強靱な筋肉があり、動きは俊敏だった。
闇霊に選ばれるだけある、優れた竜だと言えた。
大きく強く美しい王竜の中の王とも言っていい。
闇の精霊に選ばれた竜は事実上最強である証だったが、その代償はとても大きい。
他でもないその闇霊に潰されてしまう可能性が高いのだから。
でもまだ早いーーー。
混乱することがあるようだが、まだまだ狂うには早すぎる!
落下による負荷と体の重みだけでは黒竜を押さえ込むのは無理だと考えたシルドレイルは、水霊を呼び集めていた。
この地は、水竜王シルドレイルの領地であり、地の利は蒼竜にあった。
虚空に沸いた無数の水粒がどんどん集まって大きな塊となっていた。
その塊は蒼竜の体はすっぽり包んでいた。
蒼竜が四肢や、尾とは言わず、全身全霊を掛けて地面に押さえ込んだ黒竜の体も蒼竜が纏う水球の中に沈み込む。
蒼竜は水の中でも呼吸が出来るようだったが、黒竜は苦しげにしばらく藻掻いた末に空気をごぼりと吐きだしていた。
シルドレイルの領地、シルドレイルが操る水の中では、闇竜でも反撃はままならない。先制攻撃に呼吸を奪われてしまったのは痛かった。
肺の空気が空になった黒竜の意識が濁ってゆく。
生命の危機に繋がる苦しみの中で、心を占めていた憎悪や殺意が薄れていく。
生存本能の前では、人間への憎しみなど二の次だった。
人間への思いが掻き消え、己を攻撃する敵への闘志に切り替わろうとするそのタイミングをシルドレイルは逃さなかった。
『ガーレルヴェルグ、聞け。ガーレルヴェルグーーー。おまえは何者か、おまえの大切な者は何だ。考えろ、思い出せ、天恵の娘だ。小さな美しい娘、おまえが檻の中から救い出したアドリィの言う名の娘、おまえにとって大切な娘が、ガーレルヴァルグ、おまえを呼んでいる、待っている!』
20170730

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