第一章

9
「ああ、もう戻ってきたようだ」
腹立たしげにガーレルが言い、髪を撫でられていたアドリィはびくっと緊張した。でもそれはアドリィに言ったことではなかった。
ガーレルは小屋の外を気にしているようで、アドリィを見下ろすと
「悪いが、さっき頼んだ風の精霊への命令を解除してくれないかな。小屋が開かないと騒ぎ出すだろうから」
アドリィは、こっくりと頷いてすぐに風に伝えた。
部屋の空気が元に戻り動き出した。閉め切られていた部屋は普通に戻り、足音に続いて「旦那ぁ〜」という親方の声と共に小屋の扉が開けられた。
アドリィはベッドの上で座り、毛布をすっぽり被って顔だけを出す。
服を着ているのになぜ毛布を被るのだろうと思っていると、
「とかく人間はこういう感じが好きだからね。肌の部分は出してやってくれ」
茶目っ気たっぷりに言うので毛布の中から腕と足を覗かせる。
ガーレルの方は外套を脱ぐと、外れた鎖が落ちている床の上に、鎖を見えないように広げた。鎖がアドリィの足に繋がっていないのは、よく見ればわかってしまうことで心配だったけれど、上衣の開襟をし、ベルトの金具を外して衣類を着崩した感じにして戸口に立ったガーレルに、親方はひたすら下品なニヤニヤ顔を向けた。
「お楽しみのところ、申し訳ありませんが、お食事の用意が出来たんで持ってきたんですよ。少しでも、快適に過ごして貰いたくて。もちろん、多少、お金はいただきますがね」
ガーレルは面倒くさそうに懐をまさぐり財布を出そうとしたが、親方が断った。
「明日の朝もお持ちしますから、そんときまとめてで結構ですよ」
押しつけるように料理の載ったトレイをガーレルに手渡して、他に欲しいものがあるかと、聞いたがガーレルは首を横に振った。
「欲しいのは、おまえの邪魔が入らない時間だ。一晩に何度も邪魔をするなら金を返して貰うことになるぞ」
低い声を出したガーレルに、親方は慌てて去っていった。
幸い、鎖のことは気がつかなかったようだ。
「実に美味そうな食事だ」
本当にそんないいものが出てきたのだろうかと気になったアドリィは毛布から出て確認すると、皮肉なのだとわかった。
「草や実をそのまま出した方がいいぐらいだ」
嫌そうに顔を顰めたガーレルは小卓の上に乱暴にトレイを置いた。
「こんなものを食べさせられていたのか?」
「まだそれは塊が入っているから。普段はスープだけだよ」
あとは固いパン。ガーレルに運ばれてきたのは、アドリィの一日一切れの五倍はあった。
「明日の朝に、もう一度これを出して、金貨一枚ぶんどるつもりなのか・・・」
「渡さなければいい」
「渡さないと面倒なことになるだろう?」
「朝になる前に去ってしまえばいい」
「ふむ。まあ、そのつもりだが・・・」
出立の話を出したのはアドリィだったのに、ガーレルの口から聞かされると急に心が波立った。寂しくなっていた。
ガーレルは去ってゆき、明日にはアドリィはまた独りになって、話をする相手もいなくなってしまう。
いままでずっとそうで、これからだって。たぶん命が尽きるまでそうしているのだと思っていたはずなのに、ガーレルと会ってしまって心まで弱くなってしまったようだ。
見世物小屋を訪れる客の喧噪も聞こえなくなっていた。
客も去って、そろそろ深夜も回ろうとしていた。
けれど朝がやってきたとき、夜と一緒に目の前の黒竜も去ってゆくのだと思うと太陽などもう登らなくていいとさえ、アドリィは思った。
でも、目の前でいきなり上衣を脱ぎだしたガーレルの様子を目にしてアドリィは固まってしまった。
上だけではなくて、ブーツも脱ごうとしていた。
脱いで、なにをするのだろうか。
一応、思い付くことはある。
自分のこととしてはまったく考えていなかった小屋の一室に入れられている意味をあらためて思い出して、怖くなっていた。
できるだろうか。
そんなことを、自分が上手くできるとは思えなかった。
でも命令されたとき、するしかないのだ。アドリィに逆らえない相手はいくらでもいただろうけど、そのなかでもとびきりな存在なのだから。
脱いだ上衣と靴、床の上に落としていた外套も拾うと、ガーレルは丁寧な仕草で小さく畳むと持っていた鞄の中に入れた。
それからアドリィを振り返ると、はっと慌てた顔つきになった。
ベッドの上で引き攣った顔をしているアドリィに気がついて、ガーレルも何か重大なことを感じたようだ。
「・・・そう、いう意味じゃあないよ、これはーーー」
つまり、自分は、出会ったばかりの小さな女の子を怯えさせていることをーーー。
ガーレルが焦ったように言う。
「・・・だから、ね・・・今は、そういう時期でもない。ほら、おれはそういう風には見えないだろ?」
「ーーー知らない」
短く固いアドリィの返事にさらに焦る。
「え・・・そうか・・・そうだね・・・そう、なんだよ、おれの言葉を全面的に信じてくれていい。・・・そういう時期じゃあないから、人間のような真似をしようとしているわけじゃないから、そんな顔をしなくても大丈夫だ・・・」
ガーレルは笑顔を作って必死に説明していたが、アドリィの強張ってしまった表情は簡単には弛まない。
「うわっ・・・これはーーー大失態だね・・・」
ガーレルはこれまで生きてきて、こんな風に女の子、雌性の竜を怯えさせたり、退かれたことなど一度もなかった。
いつでも、もてたから。
大きくて強い雄であるガーレルはまだ特定の伴侶を持っていないので、時期にもなれば産卵だけを望む雌性に何頭も押し寄せられて、困って自分が退いたことはあっても、退かれたことはないのだ。
だから無頓着だったのが失敗の原因だろう。
あのね、と言う。
「下も脱ぐから、見たくなかったら少し目を閉じてて貰えるかな?」
今度はちゃんと先に説明してから、動くことにする。
「ーーー面倒だから、もうここから出てしまおうと思って、ね」
でもそのために、アドリィの表情は一層強張っていたが。
ガーレルは細かいことをあまり気にしない質なのか、先にこっちを言えと言いたくなることを、おおらかに続けた。
「飛んでしまおうと。なら脱がないと、衣類がすべて駄目になるからね」
うん、とアドリィも頷いていた。
そういう話なら理解ができるから。
言うが早いか、さっさと脱ぎだしたガーレルは裸になると脚衣も鞄の中に突っ込んで、準備を整えていた。
アドリィが想像していたように、ガーレルの人体には鱗の模様はまったくなかった。
「視線がくすぐったい。おれの姿は楽しんで貰えるかい?」
20141205

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