第六章

13
徐々に距離を詰めて、飛び出すタイミングを計られているのだと知ったアドリィはゆっくりと立ち上がった。
このままでは捕まってしまうーーー。
気持ちがはやって身体が震えてしまうのを必死に沈め、素知らぬ振りをした。
焦らず、ひらひら舞う蝶を追って遊んでいるように。
そうして、ゆっくりと花畑を移動した。
その一方で、視野を広げこのあと自分が駆け込むことになる逃げ道を探っていた。
ガーレルを呼ぶことも一瞬考えたが、もう遅すぎるだろうと思った。
遠巻きに囲まれようとしている今はそんな余裕のある状況ではなく、とにかく自力でなんとかしなくてはいけない、みんなのように戦うのは無理でも最低限どこかに隠れなくてはと考えたのだ。
それに自分がガーレルに頼み込んで、キリングの元に行ってもらったのに、途中で呼び戻すなんておかしい。そんなことをしなくてもガーレルはきっとキリングを助け終わったなら、今度はアドリィを心配して戻ってきてくれるはずだから。
それまで自分でしっかりと行動しなくてはいけないのだとアドリィは思った。
そうしてみたいと感じていた。
自分でも少しだけ戦ってみたい。
純粋な冒険心だった。
ちゃんと竜にだってなれた。だからもう少しだけやってみたい。
無事に達成できたら自分がほんの少し誇らしくなれるだろう。
ガーレルも驚いて、褒めてくれるだろう、と。
檻の中で刹那的に生きてきたアドリィは世界のことに興味が持てず生きてきた。すべてを諦めて、夢も希望もなかった。
体に力が満ちたからこその気力で、こうした意志の芽生えは大きな成長の証でもあったけれど、少々気負いすぎた。段階を飛ばしすぎる物だった。
アドリィは知らなかったが、人間たちの間には竜の気配を辿る高性能な術具が広がっていた。
アドリィの姿がまだ目視できなくても、アドリィの気配を察知し、そこにいることも手に取るように掴んでいる。
だから一度追跡されてしまったら、物陰に身を潜めて隠れることなど実際に不可能だった。
経験は力となる。成功と失敗を繰り返しながら、致命的な死だけはすり抜けながら命のある限り生きてゆくしかない。
それは人間にも竜にも言えることで、ガーレルといった竜王だって当てはまることだった。
ただ失敗の許される許容範囲がアドリィはひどく狭いだけで。
少しも失敗を許されない身なのだから、おまえは失敗するなーーーは到底無理な話だった。
アドリィは考え、より良く生きるために道筋を決めた。
心も決まっていた。気持ちが落ち着いて、手足の震えが収まっていた。
これなら大丈夫。走ることが出来る。逃げることが出来る。
ここで死にたくなかった。檻の中に戻るのももう嫌だった。
ガーレルとこの先も一緒にいたいから、全力で逃げるのだ。
アドリィは走り出していた。
ふわふわと舞っていた蝶が慌てて飛び退いていた。
木立の間に突っ切って、藪の隙間をすり抜けて駆けた。
走りながら自分がこれまでこんなに真剣に逃げたことがないことに気付いて嬉しくなっていた。
兄弟の中でも一番弱く、竜とは名ばかりで脆弱で生存競争に真っ先に負けてしまうような存在なのに、生き残ろうと戦ったこともなかったのだ。
苦しくてもとまれないこれが、生きていることなんだなと感じた。
呼吸をしていただけの自分はなんて不自然な生き方をしてきたのだろうと思った。
逃げながらもアドリィは追いかけてくる敵の動きにもちゃんと気を配っていた。
求めると風や土の精霊たちが丁寧に教える一方で、もっと早く、もっともっと走れとアドリィを急かして、事態の深刻さを叫んでいた。
けつまずいて倒れそうになって、転がるように走り続けた。
息が上がって、足が縺れだしても一向に逃れることは出来ず、人間がどんどん近づいてきていると精霊たちの声が増した。
アドリィもようやく、こんなことでは逃げ切れないのだと悟った。考えが甘かったことを知った。
ではどうするのかーーー。
このまま疲れて走れなくなる前に他に出来ることはないのだろうかと考えたとき、その発想はするりと体の中から出てきた。
戦うのだ。
ガーレルのことは気持ちの中からすっかり消えていた。
戦おう。
生きるために戦う。
自然なことだった。
わたしは竜で、竜を狩ろうとやってくる人間たちに全力で向き合う。
だったらこの姿では駄目だった。
少しでも大きく、力のある竜に戻った方がいいはずだ。
そう、竜としてーーー。
アドリィも自分で驚いていた。
自分にはこんな一面もあったのだ。好戦的な情熱、自分など簡単に負けると想像がつくのに、立ち向かいたいと望んでいる。
死ぬかもしれないのに、心が弾んでいた。
わくわくして愉しくなっていた。
出来る限りの力を尽くす、戦う、負けたくない。勝ちたい。勝つために戦うーーー無理でも、少しでもーーー。
走っていたアドリィはぺたりと地面に膝を付いた。
後ろで声がした。人間の声、歓声だった。
竜の姿を確認したことに喜んだのだろう。
小さな少女の姿に化けた竜は力尽きて動けなくなったようだ。
この竜は人間の姿ばかりをしていて、何らかの理由で竜になれないのではと言う情報を耳にしていた。
ならば捕獲は簡単だった。多少力の強い人間の子供と考えてもいい。
腕を押さえて引き倒せばいいのだ。
人間たちはじりじりと距離を詰めていった。
少女の小さな背中に木漏れ日が落ちて揺れていた。
蹲る竜の少女。
その小さな竜は、豊かな森の中には場違いなほどの洒落たドレスを着ていることを見て取った人間がいた。
子供が着るには馬鹿高い物だ。でもそれを、知り合った男は気に入ってしまって、売り物ではないところを自分が交渉して無理矢理買ったのだ。
そして、それは男にとって贈り物であり、品物は間違いなく相手に渡ったーーー。
20170625

前へ 目次 次へ