第五章

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見つめてしまっていたアドリィもガーレルと一緒になって慌てて横を向いたが、頬にヴァルネライラの両手が伸ばされていた。
身を屈めて、アドリィを間近に見つめて言った。
「人間に化けていると便利なことがあって悪くないと思うわ。でも、あなたは竜よ、人間ではないの。それをときどき思いだして、本来の姿に戻ってみるのは必要なことのはず。忘れてしまっている大切なことを思い出すかも。それに、欠片もーーー」
「欠片ってなんだ?」
アドリィよりもガーレルが先に反応していたが、ヴァルネライラは意味ありげに笑っているだけで答えなかった。
「わたくしの着替えは、いつもの場所に片付けておいてね」
「おれはおまえの小間使いじゃないぞ・・・」
文句を言うガーレルを無視して、ヴァルネライラは、ありがとうとお礼を言った。
そして
「あなたたちも、楽しい時間を過ごせたわ、ありがとう」
ネーザリンネや、ディーメネイア、キリングに告げた後、もう一度アドリィを見た。
「また会いましょう。そのときはもっと女同士の話をしましょう!」
はいと答えたアドリィの前で、ヴァルネライラの輪郭が崩れてゆく。
「もっと離れて戻れよ・・・」
ぶつくさ言うガーレルは、アドリィを抱えたまま立ち上がっていた。
ネーザリンネたちもそれぞれ動き出して、ヴァルネライラから距離を置く。
ヴァルネライラの姿はすぐに大きく膨れあがり、白い肌の人間の姿だったものが紅く艶やかな、甲冑を思わせる鱗に身を固める竜となる。
朝日を弾いて鱗の一枚一枚が燃えさかる炎のように輝いていた。牙と角の先端が、長くしなやかな尾が、広げられた大きな翼がアドリィの意識を釘付けにする。
竜の能力として視ていたものと、目の当たりにする本当の姿ではまるで違った。
竜の発する気迫に全身が震えるような気がした。
『いつか一緒に空を飛びましょう!』
アドリィの頭の中にヴァルネライラの声が響いたとき、紅い翼が空気を掻き混ぜる。
数度の羽ばたきで薙ぎ飛ばされそうな強い風が起こっていた。
ガーレルがアドリィの体をがっちりと支えていてくれるからころころと風に転がってゆくことはなかったけれど、目を開けていられないほど強烈な風圧だった。
でも一瞬たりとも目を逸らしたくない。
陶然と見とれるアドリィの前で、世界でも屈指の紅く美しい竜は一気に宙へと舞い上がった。
巨体という質量も、その躯を覆う鱗の壮麗な厳めしさもすべて無視する軽やかな飛翔だった。
朝焼けの空はヴァルネライラを主と受け入れる。紅竜は吸い込まれるように真っ直ぐ上昇すると、
ギャオオウーーー。
竜はあたりに轟く大きな声で咆吼した。
『せっかくだから、少しだけからかってから行くわ』
頭の中に響いたヴァルネライラの笑いを含んだ声に、いったい誰をと思ったのはアドリィだけのようだった。
「あいつが一番激しくて、結構やらかしているのに、要領がいいんだろうな、呼び出しをくらうことは滅多にない・・・」
「攻撃しなくても掻き乱して、半分ぐらい引き連れて行ってくださるだけでもありがたい。シルドレイルさまの面倒が軽減する」
「でも紅竜さまはシルドレイルさまと、こちらから攻撃はしないと決めたとおっしゃっていたわ」
「うーん。じゃあ攻撃はなさらないけど、うっかり火霊の塊を地上に降らされることはありかもーーー」
楽しげにキリングは言い終えたとき、遠くで地響きのような揺れと怒号に似た空気の振動を感じ取った。
「さすが、紅竜さま、素敵!」
キリングが歓声を上げたが、ガーレルは渋い顔だ。
「長老め、あいつを依怙贔屓しているんじゃないのか。許せん・・・今度直訴してやる!」
憤懣やるかたないガーレルの名が腕の中から呼ばれていた。
「わたし・・・一度も飛んだことがない・・・。それどころか、物心が付いたのは人間の檻の中で、とても狭い檻で窮屈だったから人間の姿になった。・・・それから一度も、竜の姿に戻ったことがない・・・」
「ああ、そうだね・・・きみのこれまでは人間に囚われ不自由だった・・・でも、これからはきみは自由だよ。きみを縛る者があるとしたら、おれぐらいだから」
冗談めかして言い、にっと笑うガーレルにアドリィはくすくすと笑っていた。
「・・・わたしも、空を飛べるかな・・・飛べるようになりたい・・・」
「体力、筋力を付けたら不可能ではないと思っているんだが・・・」
「ガーレルが、そう言うならきっと大丈夫だね・・・飛べるようになって、ガーレルの領地のミッドルーンに行ってみたい」
「それだったら、もしも飛べなくてもぜんぜん平気だぞ。おれが大切に運んでいってやる」
「ありがとう、ガーレル。・・・でも紅竜さまのお姿を見て、わたしも飛びたいと思ったの・・・。だからガーレルが街で買ってきてくれる燻製肉もしっかり食べて、大きくならないといけないね・・・」
食べて、成長することが今のアドリィに一番大切なことだった。
人間に捕まっているときも、こいつは痩せ細って、もう長くないだろうと言われ続けていた。
もう、生きる死ぬ、ではないのだ。
アドリィが目指しているのは、成長すること、今より大きくなることだった。雄のガーレルにはない、柔らかさも兼ね添えた雌性竜王のしなやかさのある雄々しい姿がアドリィの脳裏に焼き付いていた。
ヴァルネライラは、わざと竜の姿をアドリィに見せてくれたのだと感じていた。
アドリィが、自分が竜であることをもっと意識するように、竜の誇りを思い出すように助言をくれたのだと思っている。
これまで、アドリィは小さな成長の悪い竜の姿に戻ることを避けていた。竜王を始め、その伴侶を狙うという力強い竜たちの集まるここで、アドリィは唯一浮いている。
その姿は恥ずかしい、憐憫を招くようなものだと自覚している。
でも、ヴァルネライラの竜姿を目にしたことで、アドリィの中で何かが変わった。
わたしの姿に、戻ってみたいと思った。
わたしの小さな成長の悪い竜の本体だった。
でもいきなりガーレルの前では恥ずかしいから、こっそりとーーー。
解けるかなという不安が心をよぎっているから、やっぱり最初は誰もいない所でこっそりとーーー。
嵐のようにやってきて、嵐のように去っていたヴァルネライラはアドリィに諦めてしまっていた希望を、持っていいのだと教えてくれたのだ。
ガーレルとは大きく違うけど、でもこの先も一生、感謝の思いを抱く掛け替えのない敬愛する竜王だった。




20161030

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