第一章

7
化け物に取り憑かれた憐れな人間として客の前で寸劇をしたり、それ以外は裏方との仕事もしながら見世物小屋で働く青年のことは、アドリィは嫌いではなかった。
だから自分のことのようにアドリィを心配して沈んでいる彼に、大丈夫だよと、言ってあげたかった。
けれど、悩んでやっぱりやめることにした。
彼とも一度も話したことはないのだ。
親切だったけれど自分は心を開かなかった。
それなのにこんなときに、話しかけ秘密を貰ってもきっと彼も迷惑なだけだろうと思ったのだ。
言葉も理解しない竜の子のままの方がきっと彼だって、楽だと感じたから。
きっと、知らない方がいいこと、気がつかなくていいことは世界にいっぱいあるのだ。
特に弱いものは、なるべくいろいろなことに関わらずにひっそり生きてゆくことが良いとアドリィは思っていた。
対処できるだけの力がないなら、気がついても仕方がない。
なにも出来ないなら、考えるだけ無駄ではないだろうか。
そうはわかっても、上手くいかないときがあった。
たとえば、あの黒竜は、ガーレルはいったいどういうつもりなのだろう、だ。
気になっていた。とても。
あんなにたくさんの金貨を親方に払っていた。
前払いだという親方に、素直に支払われた。
アドリィの目の前ですでにお金の取引は成されて、目にした光景に、払う必要など無いのにと、腹が立った。
なにか要求があるなら、アドリィに直接言えばいい。
命令すればいいのだ。
そうすれば、アドリィは全力で従うーーーしかない。
強い竜の意志に逆らうことなどできやしないのに。
考えても仕方ないのに、頭から離れず、考えてしまっていた。
自分は、不安なのだと気がついた。
ガーレルは、少し辺りを見てくると姿を消していた。
その間に、アドリィの準備がされていた。好色な金持ちの一晩の遊び相手になる人間の女たちのように。
人間は竜のように繁殖期を持たないようで、一年中、相手を求めているから。
人間は竜のように番いの意識は薄くて、誰でもかまわないところがあるから。
アドリィの体は成長を止めてしまっていても、目覚めてしまった意識はずっと動いていた。
だから姿は幼いままでも、もう子どもではなくなっているほどの時間を生きてきて、子どもでは知らないことをちゃんといろいろ理解しているのだ。
以前にも、自分を一晩買いたいと言い出した男がいて、親方が断ったあとも、しばらくよだれを垂らし興奮しながら、アドリィの檻の前に居座っていた。
交尾を望む人間の雄。
相手はアドリィで、同族ではないのに。しかもみすぼらしくて、まだ子どもの姿でしかないのに。
いろいろ間違っていて、ひどく気持ちが悪かった。
でも、今、同じような事態になろうとしていた。
今度は親方が言い出したもので、アドリィが買われることになったのは人間ではなくて、竜だけど。
ガーレルは、アドリィと同じ竜だから、一応、間違いの一つは正されている。



ーーー竜。
ーーー誰も気がつかないけれど、場違いなこんな場所に大きくて美しい竜。
あまりに違いすぎて怖ろしいのに、見てしまうと目が離せなくなるような竜だった。
心がどきどきした。
ずっとガーレルが来てから、どくどくと心臓が激しく脈打っている。
自分が恥ずかしくてずきずきするほどの、それほどの相手がアドリィの目の前にいた。
これは竜の性なのかもしれないと感じていた。
強い力に惹かれる。強すぎて毒のように苛まれるのに、惹かれる。
意識が奪われそうで、くらくらした。
姿を透けて見ることができるのだ。
化けた人間の姿からほんの少し視点をずらしたとき浮かんでくる姿は黒々と輝く大きな鱗と、太く長い尾の滑らかさに釘付けになり、逞しい四肢と鋭いかぎ爪、そしてなにより眼光の深さーーー。
これ以上見ていたら駄目だと感じて、アドリィは慌てて目を背ける。
本当なら、あんな見世物小屋の親方が話しかけることもできないような強い尊い竜だった。
それなのに親方の話に乗って、金貨を渡した。
ガーレルに金貨の価値などどれほどもないだろうけど、でもなぜ与えるのか不思議だった。与える価値など、もっと無いのに。
でもなにより一番価値がないのは、たぶん、あの竜・黒竜にとっての自分だった。
小さな竜が、近寄れるようなそんな温い存在ではないのに、なぜかいる。
アドリィが自由ならあまりの違いにきっと逃げ去ると思うのだけれど、自由じゃなくて逃げられなくて、ガーレルにとってすべてが自由なはずなのに立ち去らなくて、ずっといる。
どうして。
なにを望んでいるのだろう。
わからないけれど、なにかがあるのだろう。
じゃあ自分は、一体なにを望まれているのだろうか。
アドリィの役割として、思い当たることは一つだけだった。
自我の目覚めの前に果たすべきだったことを、今望まれているのかもと思った。
でも大きく育ったあの黒竜にはもう必要は無いはずだった。
それでも望む?
でもそれ以外の理由が思い当たらない。
それはーーー。
痛いだろうか?
苦しいだろうか、どのくらいの間、続くのだろうか?
生きてゆくことは苦しい。でもその瞬間は、比べものにならないくらい苦しくて痛いのだろうと想像すると、心が竦んだ。



アドリィが小さな小屋の一室に連れて行かれたとき、まだ部屋には誰もいなかった。
ベッドしか無いような狭くて簡素な部屋だった。
アドリィの首輪から伸びる鎖の端を部屋の壁にある留め具に繋げると、アドリィの世話をしてくれた青年は去っていった。
去り際、アドリィの髪を一度だけそっと撫でて、「大丈夫だよ。あとで迎えに来るからね」と言い置いて。
しばらく部屋の床に座って待っていると、人の気配がして、扉が開いた。
親方だった。
怒鳴り散らしてばかりの普段よりも、機嫌の良い愛想笑いを浮かべた親方の後ろに続いてやってきたのは、ガーレルだった。
20141203

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