第二章

7
森林を突っ切ると広い草原だった。
そこで見つけた小さな流れで喉を潤しながら少し休んだ。
そのあとは地面が次第に傾斜になっていった。
ガーレルと二人、アドリィは進み続けた。物心が付いた後のほとんど時間を見世物小屋の檻の中で過ごしてきたアドリィがはじめて知る果てしなく続く世界だった。
情報としては識っていたけれど実際に体験することとはまた別なのだとアドリィは感じた。
アドリィが受け継いだ知識には、世界の広さは不安を生み、また同時に心が澄み渡るような深い歓びを与えるのだということを教えられなかった。
でもこれはもしかすると、今、繋がっているガーレルの心地なのかもしれないと思った。
最初のうちはアドリィも自分が置かれている状況をすっかり忘れて、ずっと不安を感じていた分、自分がこれほど動くことが出来ることに純粋に驚いてしまった。
けれどしばらくして気がついた。違うのだ。今、こうして動いているのはアドリィではない。アドリィの体力、力ではなくガーレルの力なのだと。
動いても動いても疲労感がないことがおかしくても、自分ではないというならすっきり納得することができた。
それからは世界の光景だけでなく黒竜の力も楽しみながら、アドリィは歩いた。
先に歩むガーレルの背中を追いかけるように、差し出された掌に導かれるように夢中になって足を動かした。
尾根づたいに登って、降りた。
道しるべはガーレルだった。
そのガーレルが脚を止めたから、アドリィも立ち止まって見上げたのだ。岩壁に行き当たっていた。
ガーレルが目指しているのはその先の地だと聞いていた。
「遠回りをするのも面倒だから、このまま進むことにしよう」
ガーレルはアドリィを振り返り、こともなげに笑顔で言ったが空まで岩面が聳えているような状況に、さすがに不安になってくる。
ガーレルは素手で器用に岩の凹凸を掴んで天辺近くまで登って様子を見たうえでアドリィのところまで戻ってきて、「大丈夫、行けそうだ」と告げたが、長身大柄のガーレルが届いた取っかかりに、小さい自分が届くとは到底思えなかった。
ではこの壁登りはただガーレルを真似して追いかけるではなく、自分で自分用の手がかり足がかりをちゃんと見つけて登らなくてはいけないのだ。
上手くできるかなとアドリィは心細くなっている。
下手をして落っこちたら・・・。
アドリィでも一応竜なのでただの人間より丈夫に出来ていると信じて、ガーレルの力も借りているから、即死はたぶんないだろうと想像する。
けれど落ちたらもう一度最初から登らなくてはいけなくて、大幅に時間を無駄にしてしまうのだ。
そしてもしも本当に、ガーレルの前で地面までぽとんと落っこちたら、体は痛くて心は恥ずかしいという目も当てられない状態に陥るのだと思った。
すっかり怯んでしまったアドリィに、
「おれの首に掴まってくれる?」
「首?」
ガーレルはアドリィによじ登らせるつもりなど端から無かった。
「背中に乗っかって、落ちないように」
「・・・いいの?」
優しい黒竜に、そんな風に甘えてしまってもいいのだろうか、これにも不安になるアドリィに、ガーレルは満面の笑顔を浮かべている。
「もちろん、いいよ」
ガーレルがアドリィに背を向けて屈み、アドリィは躊躇った末、そっと首に手を伸ばそうとした。
でもそのとき、ガーレルが止めた。
「あ、待った。掴まりにくいよね」
ガーレルは鞄から紐を取り出すと長い黒髪を手際よく一つに束ねて体の前に垂らしたが、う〜んと悩んで、
「これでも、やっぱり邪魔だね。切った方がいいかーーー」
「切らなくてもいいっ!」
アドリィは慌てて言った。
「でも邪魔でしょ?」
ガーレルが首をねじ曲げてアドリィを見て、聞いた。
「大丈夫っ」
「本当に?」
疑わしそうにしていたから、少し強く繰り返した。
「本当!」
問題は、本当かどうかではなくて、アドリィはガーレルに艶やかな黒髪を切って欲しくなかったのだ。
似合っていて、格好良いから。
髭は長くてもそれほどいいとは思わないけれど、髪は長い方がいいというのは変なのと思いながら、でもそう感じるので、切らなくていいと言葉にして伝えてみると、ガーレルはわかったと頷いた。
「いつでも言ってくれれば切るよ?」
裸と髭に懲りて慎重になっているガーレルが用心深くアドリィの表情を伺いながら確認して、大丈夫そうだと判断すると気を取り直して前を向いた。
アドリィを背負って立って、あっという間だった。
ひょいひょいと崖をよじ登るガーレルは、アドリィどころか自分の体重さえも感じさせないほど軽やかだった。
両手で岩面を掴むので、アドリィの体を支えられないから。
だからアドリィにはその間、自力で掴まっていてもらわなくてはならず、仕方がないとは言えそれがガーレルにとって、ひたすらひたすら心配で落っことすことにならないだろうかと、精一杯急いで登ったのは確かだ。
けれど、そのために登り切ったあと、とてもきらきらした崇拝と憧憬の目差しを向けられることになり、まったくもって悪くない気分を味わうことになる。
竜は、竜として高い自尊心を持つ者が多いので、これほどの隠さない純粋な崇敬の念を抱かれることはガーレルもあまりない。いや、なかった。
特にガーレルは闇の精霊憑きの黒竜なので、他の精霊の竜に比べて疎まれることにもなるから。
20150108

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