第二章

1
ぽとっと草の上に落とされたアドリィは体を丸めて大地にしがみつく。
緑の下草を指に絡めるようにして掴んでいたが、少しでも力を抜くと吹き飛ばされてしまいそうだった。
指先に力を込めて耐えていると、強風はほどなく静まっていった。
アドリィはそおっと頭上を見上げる。
闇色の中に一対の黄金。黒竜の目が輝いていた。
黒竜は森の中ほどに、木々が枯れてぽかりと開いた小さな空き地に巨体を窮屈そうに縮めて降り立っていた。
重さを感じさせない軽やかで器用な着地だった。
黒竜のためになぎ倒された木々は一本もなかった。
羽ばたきも止まり、空中に広がっていた翼も躯の脇に引き絞られると竜の巨体は二回りほど小さくなったような気がした。それどころか、目の前にいるというのに黒竜の気配はどんどん薄れて、感じられないほどになり驚きとともに不安な気持ちになったアドリィにぐいっと黒い鼻先が迫った。
軽く小突く。
『どうした、なにか問題が起こったのかな』
アドリィは、ううんと首を横に振った。
『・・・平気だね?』
頷いた。
大丈夫。
幻のように消えてしまうことなく黒竜はちゃんとここにいる。
『口で運ぶのは、案外難しいものだね。・・・唾液が溜まってくるし、うっかりすすると一緒に呑んでしまいそうだ・・・』
アドリィに明るい黒竜の思念が届けられる。
うっかり何をーーーもちろんアドリィだった。
黒竜・ガーレルはといえばまったく別の、そんなことに気を揉んでいたようだ。
運んでいた途中うっかり食べてしまったなどは、絶対に避けたい。ひやひやしながら飛んでいたのだと運ばれていた者には笑えないだろうことを笑って話した。
でもアドリィもあまり気にしていない。
食べられてないから大丈夫と笑顔を浮かべて答えたが、でも言われてみると、ガーレルの言う通りアドリィの体は竜の涎が伝ってべたべたになっている。けれど消化されて溶けだしているわけではないのでやっぱり平気だった。
『奪われないから安全と思ったが、予想外の伏兵だ。自分が一番危ないとは。次は口の中はやめようーーー』
アドリィの頭の中に直接響く黒竜の言葉は真面目な響きのそれで終わった。
黒竜の大きな体が震えていた。
やがて身もだえするように波打って揺れた後、黒光りする体が見る見る縮んだ。
小山ほどの質量が収縮されただけでなく、夜の中でも一段と深い漆黒の光沢が失われた。かわりに現れたのが乳白色は肌色と落ち着き、形もおおらかで滑らかな曲線がなくなって別の生き物に変わったことを知った。
人間のような姿、ではない。
黒竜は、逞しい人間の男となった。
鱗の影すらもないガーレルの背中がとても白いことに見とれていると
「少し待っていてね」
裸の男は上半身をねじってアドリィの方を振り向き、にっこり笑顔を送ると速やかにアドリィの背面に回った。
そして黒竜の時から片足に絡めるようにして保持していた鞄を手に取ると中から衣類を取りだすとてきぱきと身に付ける。
「着替えるからこっち向かないでね」
一度、懲りたので慎重だ。
繊細な女の子の前では、裸はよくないのだ。
やんやと喝采を送るようなガーレルのこれまで付き合ったような女達とは違うのだから。
学習した黒竜はきっちり着終えてから、地面に座って静かに待っているアドリィの前まで戻った。
黒竜だった男は、人間になっていたが再びすっかり黒だった。
黒い髪は艶やかに長く、黒い衣類の背中を覆うほどだった。
黒い上衣。黒い脚衣、そして黒い長靴。
袖先から伸びる手先と首と顔といった肌だけが白い。
白々と明けつつある夜の中で、ガーレルの肌の部分だけが浮かび上がるように白かった。
あぁ、とアドリィは納得した。
黒竜の棲む土地は雪の多い場所だから。
雪国の人間は白いきれいな肌をしているなどと聞いたことがあるから、きっとガーレルもそうなのだと思った。
でも、なんだか、違う。
違和感がある。
ガーレルを見ていて、湧き起こる首を傾げたくなる気持ちの理由、違和感の正体にアドリィが気がつくのはもう少し先立った。
ガーレルはアドリィの前に腰を下ろして座った。
「どうかしたか?」
言われて、ううん、とアドリィは慌てて首を振って、あらためてガーレルの金色の瞳を見つめた。
最初に旅の学者としてアドリィの前に現れたとき、ガーレルは琥珀色の瞳をしていたはずだった。
でもまだ、今は金色だった。
黒竜の目の色のままだ。だからまだ人間として完全ではないのだと知れた。
ガーレルはアドリィを真っ正面から見つめ返すと、穏やかな笑みを浮かべていた。
「一つ相談があるんだ」
20141215

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