第一章

13
静かに澄んだ心が、短刀を握った黒竜と同じ瞳の色はアドリィは、アドリィではなく黒竜だったのだと教えた。
黒竜が告げた通りだ。ならジークを襲ったのは黒竜なのだ。
悪いのはこの黒い竜で、少女ではない。
やはり諸悪の根源、黒竜ーーー。
でも語られた内容を最後まですべて理解したときに、さらに驚くことになった。
もう痛みは治まっているはずだーーーと言ったがそれは嘘だ、まだ痛い。
けれどジークは自分の体の異変を感じ取って起き上がろうとして、引き攣るような苦痛にあい呻き声を上げた。
それでもわかる。違うのだ。
傷は普通ではありえなかった。
燃えるように熱く痛んでいるけど、出血はすでに止まって薄皮が張っていた。早すぎるのだ。
失って久しい目の辺りはズキンズキンと脈打っていた。ときどき白い火花が散るような錯覚がある。
傷は軽くないのに、疲れて淀んでいた心がすっきりとしていた。
今まで感じたことの無いほどに。
体は沸騰するかのように力が溢れていると感じるのだ。
『傷はあっという間に再生するだろうさ。ーーー抉ったから、火傷もろとも癒えて回復する』
二人の驚きの眼差しを受けとめた黒竜はとても得意そうに説明した。
『竜の鱗の剣で、おれの意志に、きみが与えた切り口もきれいな傷だ。これだけ竜が合わさってこさえた傷、癒えないはずがないーーー竜の再生力さ。きみは感謝されこそすれ、非難されることはないよ』
ジークもジークの意志もまるでそこにいない者のように無視だったが、黒竜はアドリィに丁寧に説明したので、アドリィはみるみる表情を綻ばせた。
「火傷のあともぜんぶ消えて、きれいに治る?」
『ああ。余程の無理をして傷を悪化させなければ再生するはずだ』
「・・・よかったっ・・・」
再び涙を滲ませて泣き出してしまったアドリィを、ジークは慰めずにはいられなかった。
傷が引き攣ったが、なんとか声は出る。
「泣かないで・・・泣かないで、アドリィ・・・」
名を呼ばれて顔を上げたアドリィがジークを見つめた。
こんな風に話をすることはもちろん、見つめ合ったことだってない。
こんな日が来ることは夢だった。叶うことはないとわかっていても、望まずにはいられない毎日を生きるための希望だ。
彼女は思っていた通り言葉をちゃんと理解していたのだ。心を閉じてしゃべろうとしなかっただけで。
でももう今は、彼女はそんな決めごとをやめて、ジークに声を聞かせてくれる。
話をすることが叶う。
ジークが熱く見守るなか、アドリィが何かをしゃべろうと口を開こうとしたとき、まさにそのとき竜の声は響いた。
『アドリィ、彼に、鱗の短刀を与えるといい』
アドリィは黒竜を見上げていた。
『もう見世物小屋で働くことも出来まい。しばらくはどこかでおとなしくしていた方が傷の回復にいい。人間にとって、上手く売れば当分は暮らせる宝物(ほうもつ)となるだろう』
黒竜の言葉にアドリィは目を輝かせて、地面に落ちる血塗れの短刀に跳び付くように手に取った。
ジークに手渡そうとして、アドリィは刃に残る生々しい血色に気をとめた。
アドリィは汚れを自分の衣服の裾で拭ってきれいにしたあとで、ジークにそっと差し出していた。
ジークは自分のためにされた心遣いに深く感動していた。
可愛らしく優しい、ジークの愛しい竜の少女。
短くはない間、出来る限りの無償の愛でアドリィを包み続けた青年の思いは今、ささいだったが報われようとしていた。
ただし。
もうさっきからずっと目の前で続く二人の光景に強い不愉快を感じている者もいる。
他でもない、尊大で、寛大で、心の狭い竜の王だ。
「ありがとう・・・アドリィ」
ジークが短刀を受け取って、アドリィに微笑みかけた。
ケロイドの顔だろうと顔を顰めることはなかった少女は、血に塗れた肉が覗く無残な状態だろうと怯える様子はなく、ジークに恥ずかしそうに笑みを返そうとしていた。
『おまえにはそれを与える。だから、こちらはおれが貰うーーー手を出すな』
怒ったような宣言だった。
アドリィが黒竜を振り返って、ジークも見上げていた。
黒竜が言ったおまえが、ジークのことで、それというのが短刀で、なら、こちら、というのはーーー。
理解したときにはもう遅かったのだ。
黒竜が首を振り下ろして、ジークの前から少女の小柄な姿は消えていた。
アドリィの体を大きな口にぱっくりと咥えた黒竜は、もう地上には興味はないと空を見つめ、大きな翼を持ち上げて広げたていた。
強い力で空気を掻いて風が起こる。
体を牙に挟まれていたけど傷つけられることなく繊細な力加減がされていた。
出発だった。
人間の姿のままで飛べないアドリィをこうやって運んでいってくれるつもりなのだと、アドリィも黒竜の意図を感じとっていたから暴れることはしなかった。
その代わり、首を回して地上に取り残されたジークに目を向けていた。
「ありがとう・・・」
羽ばたきと風の唸りに声は届かないと思ったけれど、一言、言いたかった。
ずっと気づかずにいたけれど、アドリィは決して独りぼっちではなかったのだ。
ずっと優しいジークが、アドリィを気にして側にいてくれていたのだ。
黒い巨体が空に浮かび上がっていた。
でもお別れのときだった。きっとこのままもう二度と会うことはないと考えると、少し心が沈んだ。
自分の態度はいつも悪かった。もっとましなものだったら、ジークだって喜んだのだろう。
『街を出るーーーおれの所在はバレてしまっただろうから』
けれど、頭の中に響いた黒竜の言葉を聞いたアドリィは、思わずくすくすと笑ってしまった。
こんな派手なことをしておいて、バレないはずなんてないのに。
黒竜は面白い性格をしていて、楽しかった。
そして、たぶんわざとやっているとも感じた。
ひどく優しいから、と。
自分が気遣われているのだと思った。
アドリィの前に現れて、アドリィを檻の中から出してくれた黒竜。
大きくて強くて、美しい。そして尊大で、優しい竜の王。
黒竜・ガーレルと行くなら、どこでも楽しそうだった。
黒竜のお陰で、檻の外でのアドリィには想像もつかない時間が刻まれ始めようとしていた。
どきどきしていた。ひどく嬉しい。
こんな気分があるなんて知らなかったほど楽しい気持ちに包まれているから。
だから、この先、どこでおしまいになっても平気だと思った。
すべてはこの黒い竜の意志のままにーーー。
アドリィはそれでいいと思った。

夜の空を流れるように飛び去った黒竜の行方をはっきりと知るものはいない。
見世物小屋の者たち以外に黒竜の姿を見た者も少なかったからだ。
彼らは幕で仕切った内側で麻薬かなにかいかがわしいことをやっていたのではないかと囁かれた。
一夜にして廃墟となった無残な見世物小屋の跡地を見ても、薬で正気を失って暴れたのだろうと、突然街中に現れたという黒い竜の話を信じない者も多かった。
なぜって街中に黒竜なんて、ありえるだろうか!?そんなところにひょっこり現れてくれるなら、汗水垂らして野山を駆け回るハンターは泣きたくなるだろうさーーーと。
見世物小屋が崩壊して、飼育されていた多くの生きものが姿を消したことには、しばらくの間、人々は物騒だと騒いでいた。肉食獣が街の中をうろついたら危険だと自警団も動いた。
けれど物騒な事件は一切起こらず、すぐに人々の意識から忘れられていった。
見世物小屋で働いていた青年の姿が消えたことなどは、誰一人気にも留めないことだった。
ごくごく一部の特殊な者は、黒い竜は街を出て東の方向へ向かったという情報を掴んで色めきたち追いかけていったが、彼らが黒竜を荷車に積んで意気揚々と街に戻ることはなかった。






20141209

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