第一章

10
「・・・鱗がない」
「ーーーなんだ、そこ、か」
素直に言うと、少しがっかりしたように。
「鱗を残すと、鱗から気配が漏れるから隠さなくちゃならない。完ぺきに鱗を消すことが、追っ手を巻くコツになる」
何気なく言われていることが、とっても力が必要で、大変なことであるかーーーアドリィは知っているけれど、ガーレルにはきっとわかっていないのだろうと思った。
「おれの鱗を見たかったのかい?」
「うん」
アドリィが大きく頷くと、気を取り直したガーレルは今度こそ嬉しそうに
「じゃあ、ご覧あれ!」
びりびりと空気が震えた。
ぴりん、ぱりん、何かが弾けるかすか音が聞こえた。
ガーレルの裸体の表面に生じた無数の黒い点がどんどん大きくなり、見る見るうちに肌色を埋め尽くし、ガーレルの身体は黒光りする闇色となっていた。
金属片が擦れるような小さな音は変化に伴って流動している鱗が擦れているのだと気がついた。
鱗が浮かんだと同時に、ガーレルの体の形が変化していた。
背中が盛り上がりガーレルは前傾姿勢となり、床に手を付いた。膨れあがってゆく。雄牛ほどになった。でもすぐに追い越しさらに大きくなってゆく。部屋いっぱいになっていた。
「コチラニ、オイデ・・・、小屋ガ崩レル・・・天井板ガ、降ッテクルカラ・・・オレノ翼ノ下ニーーー」
ガーレルの顔も人間のものから違うものに変わろうとしていた。
平面に近かった人間から口が裂けて鼻面が突き出たものへ。
なんとか人の言葉を発した口には白い牙が煌々と輝き、あらゆるものを噛み砕くだろう歯がびっしりと並んだ。
アドリィはベッドを飛び出すとガーレルに従って浮かされた腕???翼の陰に入った。
木造の簡素な小屋はみしみしと断末魔をあげたが、それでも止まらない成長にいとも簡単に割れ破かれて、瓦解が始まっていた。
屋根はなくなって、夜空が見えた。
内部の圧力に負けた骨組みもばらばらと崩れて、小屋はべしゃんっと最後を迎えたとき、大きな黒竜とアドリィはしっとりと深い夜のなかにいた。
辺りが騒がしくなっている。小屋が倒壊する音と振動に何ごとかとそれぞれ割り振られた建物から飛び出した見世物小屋の住人たちだった。しかし彼らは、外に出てさらに驚くことになる。
目を疑っただろう。
自分たちの敷地のなかにあるうずたかい小山のような黒い物体。
夜の闇の中でも、より深い黒色の大きな塊はーーーこともあろうか、竜だなんて。
信じられる者はいない。
悪い夢から覚めようと空騒ぐ。
ギィアオオオオオオンンンンンーーーーーー。
竜は五月蠅い騒音を消し去るように一声、大きく咆えた。
一瞬、水を打ったように静かになった。
けれど次の瞬間、絶叫が轟いた。阿鼻叫喚の人間の叫びだった。場はこれ以上がないほどの大騒ぎになった。



人々はいっせいに逃げだそうとしてぶつかり合って、転がった。
蹴飛ばして転がったものに、ランプか松明があったのだろう。
火の手が上がっていた街々を移動して行商する見世物小屋の一座の住居は布製のテントや簡易小屋が多く、この所、晴れの日が続いて空気も乾燥していたため、火の回りはとても早かった。
その上、黒い竜がのしのしと歩き回り続け、人間は踏みつぶされないように逃げ回るだけで消火活動は出来ないのだ。
巨体と言ってもいいような大きさでありながら、黒い竜の動きは素早かった。
歩くなんて、そんなゆったりとしたものではなく、大きな体を支えるのに十分な太く強靱な四肢が歩を進め、地面を叩くたび地震のように大地が揺れて、人々は震えあがり満足に動けないなか、黒い竜だけはでたらめのように走り回っていた。
狂喜乱舞。
建物や積まれた荷物など避ける必要はなく、体当たりするか踏みつぶせばいいのだから辺りは目茶苦茶で愉しげだった。
太い尻尾でかろうじて残った建物の残骸もなぎ飛ばしながら疾駆するガーレルをアドリィは追いかけていたが、そろそろ足がもつれて走れなくきってきた頃、竜の暴走が止まった。
『これで、みな逃げ出しただろうーーー』
ガーレルの声ーーー思念がアドリィの脳裏に聞こえてきた。
「みんな?」
『ああ、檻の中に囚われていたものたち、だーーー』
黒竜が首をもたげ頭上を仰いだ。
つられて空を見上げたアドリィは、空中に浮かぶ生きもの姿に気がついた。
翼の生えた蛇のような姿、大きな鳥、翼を持った獅子の親子。それらはアドリィと同じく見世物小屋で繋がれていたものたちで、黒竜に挨拶でもしたかったのか、見上げた次の瞬間四方の空に散っていった。
よくよく注意をすると、騒然としている地上でも、獣の唸り声や気配があり、しばらくすると遠ざかって消えてゆく。
それが黒竜の意志によって成されたことなのだと知ったアドリィは驚いて言葉を無くしていた。
『ーーー大丈夫だ。あの男には、すべてを失っても十分な金を渡してあるよ』
金貨二十枚のことを言っているのだとすぐにわかった。金貨を親方に渡したときから、こうするつもりだったのだろうか、アドリィには想像がつかなかったけれど、黒竜は自信たっぷりですべてが当然のように、楽しそうに言う。
『さて、残るのはきみだがーーーまだ聞いていなかった』
アドリィは黒竜の黄金の瞳を避けるように俯いていた。
『きみの希望だがーーー』
檻から出たいか、という問いなら答えられないと思った。
出たいとは思っていたけれど、出たあとを上手く考えられなかったから。
すぐに捕まるなら、檻の中にずっといれば追い立てられることも、傷つけられることもなかった。
弱気ではなくて、たぶん現実だった。
竜に、人間がどれほど顔色を変えるのか嫌と言うほど知っているから。
人間の誰かの所有になっていない竜は、血眼になって狩ろうとする人間がいて、数に勝る人間には成体でも余程力がある竜でなければ勝ち残れやしないのだ。
だからどんどん、竜の数は減っている。
鱗に、角に、爪や牙、肉、内蔵、一滴の血に至るまで。すべてが高金額に取引されるまさに生きた宝だった。
数を減らしているから、ますます、竜を倒したときに手に入る報酬の金額は上がり、命を賭けても一攫千金を狙う人間が増えるのだ。
小さすぎて死にかけていた、鱗も軟らかい竜の子で、こいつは使役にも、妙薬、道具に駄目だと見なされたアドリィは竜としては、破格な生かされ方をしていたに過ぎない。
アドリィは、役に立ちたい、自分の役目を果たしたいとは思っていたけれど、人間のために怪我をしたり、死ぬことはまったく意味が違う。嫌で、檻から出なければすべてははじまらないのはわかっていても、ずるずると座り込む時間が続いていた。
風の精霊に頼めば、小さなアドリィでも檻を破ることぐらいは出来たのだと気がついたから、顔を上げられなかった。
怒られるような気がした。
ろくに逃げる努力もせず檻の中にいたアドリィの前に、わざわざやってきたガーレルはそのために現れたように思えた。
黒竜は可笑しそうに笑いだした。
『聞く前に、やってしまった。きみには悪いがもう決定事項だなーーー』
火の手の上がる闇を睥睨する黒竜は少しも悪びれることなく言い、続きだって笑いながら当たり前のように。
『おれと一緒に来て貰おう』
20141206

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